六月晦日大祓

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六月晦日大祓とは

最終更新
2009-02-22T10:55:49+09:00
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大祓とは、「おおはらえ」と読み、神道における祭礼のひとつ。「延喜四時祭式」上(『延喜式』巻第一)には「六月晦日大祓 十二月准此」とあり、6月と12月の各晦日(新暦では6月30日と12月31日)の両度、親王以下百官が朱雀門前に参集して、半歳の間に知らず知らずのうちに犯した罪を祓い、除去する除災行事である。『神道名目類聚抄』では、「祓とは、つつしみの義なり。邪念発れば是を除、あやまりては即改、不浄なれば是を去。(中略)風、梢の塵を拂、水、物の垢を洗ふが如し。」とし、『養老神祗令』では「祓とは不祥を解除することをいう」とされ、大祓とは犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事である。大祓で祓い除かれる罪とは、悪行そのものを指すだけではなく、人の凶悪な行為によってもたらされると信じられた災気や、人の行為とは無関係に生じる災気をも指しており、それらの災気が人の心身に災禍を及ぼすものと考えられていたため、それらの災気を災禍の本源である黄泉の国へと祓いやる目的がある。恒例としては、6月と12月の年2回行われ、6月の大祓を「夏越の祓(なごしのはらえ)」、12月の大祓を「年越の祓(としこしのはらえ)」と呼ぶ。6月の大祓は夏越神事、六月祓とも呼んでいる。なお、「夏越」は「名越」とも標記する。また、恒例以外に臨時で大祓が行われることもあり、諸国で臨時に行われる諸国大祓、その他に謀叛や穢れがあった場合や、大嘗祭、また斎王の卜定・群行など重要な神事・儀式などに際して、朝廷においても臨時に行われた。尚、臨時に大祓が行われる場合は、恒例の大祓とは異なり、その斎行場所は建礼門前であった。

大祓の起源について詳細は判っていないが、『日本書紀』や『古語拾遺』の記述からみて、少くとも上代の頃には行われていた儀式と考えられている。その後、大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められた。この日には、朱雀門前の広場に親王、大臣など、京にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓った。恒例の大祓については、『養老神祗令』に、「凡六月、十二月の晦日の大祓には、中臣は御祓麻を上れ、東西文部は祓刀を上り、祓の詞を読め、訖りなば、百官男女を祓所に聚め集へて、中臣は祓の言葉を宣り、卜部は解除を為よ、」とあり、平安時代の大祓の儀式次第については『延喜式』や『西宮記』、『北山抄』、『江家次第』などに詳細に記されている。その後、百年ほどは盛大に行われたが、応仁の乱の頃には衰退、江戸時代の1691年に再開され、次第に広まった。明治4(1871)年の太政官布告にて、明治新政府により「夏越神事」「六月祓」の称の禁止と「大宝律令」の「大祓」の旧儀の再興が命じられたため、全国の神社で行われるようになった。戦後には「夏越神事」「六月祓」の称も一部では復活し、現在に至る。

夏越の祓では、多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われる。これは、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。『釈日本紀』(卜部兼方:鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文にある「蘇民将来」神話では、茅の輪を腰につけて災厄から免れたとされ、茅の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきた。

六月晦日大祓の祝詞

最終更新
2009-02-22T14:05:25+09:00
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大祓の儀式の際に、卜部氏が宣読する宣命体形式の祝詞である。犯した罪や穢れを祓うために唱えられた祝詞で、中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓詞(なかとみのはらえことば)の称がある。6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残ったと考えられている。『延喜式』巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており、「十二月も此に准へ」との注記がある。今日使用されている大祓詞は、この「六月晦大祓」の祝詞を元にしたものであり、その成立については賀茂真淵は天智・天武朝説を唱え、本居宣長は文武天皇朝説を唱えているが、いずれの説もその原典になる文章がそれ以前の時代には存在したとしている。

当初は、大祓の際に参集者に対して宣り聞かせるものであったが、後に神に対して唱えられるようになった。中世には陰陽道や密教と結びつき、陰陽道の呪言や仏教の経典のように、唱えるだけで功得が得られると考えられるようになった。さらに、唱えれば唱えるほど功得が増すと考えられ、何千回、何万回も唱えるようになり、より唱えやすくするために、大祓詞の要点だけをまとめた「最要中臣祓」「最上中臣祓」が作られた。特に仏家神道、儒家神道で重視され、『中臣祓訓解』『中臣祓風水草』などの大祓詞の注釈書も書かれた。現在では大祓の際に参拝者自らが唱えるほか、神社本庁包括下の神社では毎日神前にて唱えられている。神社本庁のほか、各種の教派神道・神道系新宗教の一部でも使われているが、延喜式記載のものから内容に改変が加えられており、教団によっても多少の差異がある。

大祓詞は、内容から大きく前段と後段の2つに分けられる。前段は、大祓に参集した皇族・百官に対して「祝詞をよく聞くように」との内容の文言から始まる。これは、当初の大祓詞が参集者に対して宣り聞かせるものであったことの名残であり、今日の神社本庁の大祓詞ではこの部分は省略されている。次に、葦原中国平定から天孫降臨し天孫が日本を治めることになるまでの日本神話の内容が語られる。そしてそのような国の国民が犯してしまう罪の内容を「天つ罪・国つ罪」として列挙し、そのような罪が出たときの罪の祓い方が述べられる。罪の内容については、今日の「罪」の観念にあわないものが多く、差別的ととられかねないものもあることから、神社本庁の大祓詞では罪名の列挙を省略して単に「天津罪・国津罪」とだけ言っている。後段では、そのような祓を行うと、罪・穢れがどのように消滅するかが語られる。罪・穢れが消滅する様を様々な喩えで表現した後、四柱の祓戸神によって消え去る様子が述べられる。前段の最後には「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」とあるが、その「天津祝詞の太祝詞事」の内容はどこにも書かれていない。これが何を指すのかについて、国学が興った江戸時代以降、議論されてきた。本居宣長は『大祓詞後釈』で、「天津祝詞の太祝詞事」は大祓詞自体のことであるとする説を唱えた。賀茂真淵も『祝詞考』で同様の意見を述べている。戦前に神社を管轄していた内務省ではこの説を採用し、その流れを汲む神社本庁でもその解釈をとっている。神社本庁では、前段と後段の間には何も唱えず、一拍置くだけとしている。しかし、「天津祝詞の太祝詞事」は神代より伝わる秘伝の祝詞であり、秘伝であるが故に延喜式には書かれなかったのだとする説もある。

六月晦日大祓

輯侍親王・諸王・諸臣・百官人等諸聞食宣、

天皇朝廷仕奉比禮挂伴男・手襁挂伴男・靫負伴男・剣佩伴男・伴男八十伴男、官官仕奉人等過犯雜雜罪、今年六月晦之大祓、祓給清給事、諸聞食宣、

高天原神留坐、皇親神漏岐・神漏美命以、八百萬神等神輯輯賜、神議議賜、我皇御孫之命、豐葦原乃水穂之國、安國處知食事依奉、如此依國中、荒振神等、神問賜、神掃掃賜、語問磐根・樹立・草之垣葉語止、天之磐座放、天之八重雲、伊頭千別千別、天降依、 如此四方之國中、大倭日高見之國、安國定奉、下津磐根宮柱太敷立、高天原千木高知、皇御孫之命美頭御舎仕奉、天之御蔭・日之御蔭隠坐、安國處知食國中、成出天之益人等、過犯雜雜罪事、天津罪畔放・溝埋・樋放・頻蒔・串刺・生剥・逆剥・屎戸、許許太久天津罪法別、國津罪、 生膚斷・死膚斷・白人・胡久美・己母犯罪・己子犯罪・母與子犯罪・子與母犯罪・畜犯罪・昆虫災・高津神災・高津鳥災・畜仆蠱物爲罪、許許太久罪出、如此出、天津宮事以、大中臣天津金木本打切、末打斷、千座置座置足、天津菅曾本苅斷、末苅切、八針取辟、天津祝詞太祝詞事、 如此乃良、天津神天磐門押披、天之八重雲伊頭千別千別處聞食、國津神高山之末・短山末上坐、高山伊惠理・短山之伊惠理撥別聞食、如此處聞食、皇御孫之命朝廷、天下四方國、罪不在、科戸之風天之八重雲吹放事之如、 朝之御霧・夕之御霧、朝風・夕風吹掃事之如、大津邊居大船、舳解放艫解放、大海原押放事之如、彼方之繁木本、燒鎌敏鎌以、打掃事之如、遺罪不在、祓給清給事、高山末・短山之末、佐久那太理速川瀬坐瀬織津比云神、大海原持出、 如此持出往、荒鹽之鹽八百道、八鹽道之鹽八百曾速開都比云神、持可可呑、如此可可呑、氣吹戸坐氣吹戸主云神、根國底之國氣吹放、如此氣吹放、根國底之國坐速佐須良比云神、持佐須良比失、 如此、天皇朝廷仕奉官官人等、天下四方、自今日始不在、高天原耳振立聞物馬牽立、今年六月晦日夕日之降大祓、祓給清給事、諸聞食宣、

四國卜部等、大川道持退出、祓却宣、

六月晦日大祓

うごなはりはべ親王みこたち諸王おほきみたち諸臣まへつぎみたち百官人もものつかさのひとどももろもろたまへとのたまふ、

天皇すめら朝廷みかどつかまつ比禮挂ひれかくる伴男とものを手襁挂たすきかくる伴男とものを靫負ゆぎお伴男とものを剣佩たちは伴男とものを伴男とものを八十やそ伴男とものをはぢめて、 官官つかさづかさつかまつひとどもの、あやまをかしけむ雜雜くさぐさつみを、今年ことし六月みなづきつごもり大祓おほはらへに、はらたまきよたまことを、もろもろたまへとのたまふ、

高天原たかまのはら神留かむづま皇親神漏岐すめむつかむろぎ神漏美命かむろみのみこともちて、八百萬やほよろづかみたち神輯かむつどつどたまひ、神議かむはかはかたまひて、皇御孫之命すめみまのみことは、 豐葦原乃水穂之國とよあしはらのみづほのくにを、安國やすくにたひらけくしろせと事依ことよさしまつりき、如此さしまつりし國中くぬちに、荒振神あらぶるかみどもをば、神問かむとはしにはしたまひ、神掃かむはらはらたまひて、 語問こととひし磐根いはね樹立このたちくさ垣葉かきはをもことめて、天之あまの磐座いはくらはなち、天之あめの八重雲やへぐもを、伊頭いづ千別ちわきに千別ちわきて、あまくださしまつりき、如此さしまつりし四方よも國中くになかと、 大倭日高見之國おほやまとひたかみのくにを、安國やすくにさだまつりて、下津磐根したついはね宮柱太みやばしらふとて、高天原たかまのはら千木ちぎたかりて、皇御孫之命すめみまのみこと美頭みづ御舎仕みあらかつかまつりて、天之あめの御蔭みかげ日之ひの御蔭みかげかくして、 安國やすくにたひらけく知食しろしめさむ國中くぬちに、でむ天之益人あまのますひとどもが、あやまをかしけむ雜雜くさぐさ罪事つみごとは、天津罪あまつつみ畔放あはなち溝埋みぞうめ樋放ひはなち頻蒔しきまき串刺くしさし生剥いきはぎ逆剥さかはぎ屎戸くそへ許許太久ここだくつみ天津罪あまつつみけて、國津罪くにつつみとは、生膚斷いきはだたち死膚斷しにはだたち白人しろひと胡久美こくみおのははをかせるつみおのをかせるつみははをかせるつみははをかせるつみけものをかせるつみ昆虫はふむしわざはひ高津神たかつかみわざはひ高津鳥たかつとりわざはひけもの仆したふし蠱物爲まじものせつみ許許太久ここだく罪出つみいでむ、如此でば、天津宮事あまつみやごともちて、大中臣おほなかとみ天津あまつ金木かなぎ本打切もとうちき末打斷すゑうちたちて、千座ちくら置座おきくららはして、天津あまつすが本苅もとか末苅すゑかりて、 八針やはり取辟とりさきて、天津あまつ祝詞のりとふと祝詞事のりとごとれ、如此くのらば、天津神あまつかみ天磐門あまのいはとひらきて、天之あめの八重雲やへぐも伊頭いづ千別ちわきに千別ちわきて聞食きこしめさむ、 國津神くにつかみ高山たかやますゑ短山ひきやますゑのぼして、高山たかやま伊惠理いほり短山ひきやま伊惠理いほりけて聞食きこしめさむ、如此きこししてば、皇御孫之命すめみまのみこと朝廷みかどはぢめて、天下あめのした四方よものくにには、 つみつみらじと、科戸之風しなとのかぜ天之あめの八重雲やへぐもはなことごとく、あした御霧みぎりゆふべ御霧みぎりを、朝風あさかぜ夕風ゆふかぜはらことごとく、 大津おほつ大船おほふねを、はなともはなちて、大海原おほうなばらはなことごとく、彼方をちかた繁木しげきもとを、燒鎌やきがま敏鎌とがまもちて、 打掃うちはらことごとく、のこつみらじと、はらたまきよたまことを、高山たかやますゑ短山ひきやますゑより、佐久さく那太理なだりちたぎつ速川はやかわ瀬織津比せおりつひめかみ大海原おほうなばらでなむ、如此なば、あらしほしほ八百道やほぢの、八鹽道やしほぢしほ八百やほあひ速開都比はやあきつひめかみ可可呑かかのみてむ、如此可可かかみてば、気吹戸いぶきど気吹戸主いぶきどぬしかみねの國底之くにそこのくに気吹いぶはなちてむ、如此気吹いぶはなちてば、ねの國底之くにそこのくに速佐須良比はやさすらひめかみ佐須良比さすらひうしなひてむ、如此うしなひてば、天皇すめら朝廷みかどつかまつ官官つかさづかさひとどもはぢめて、天下あめのした四方よもには、今日けふよりはぢめてつみつみらじと、 高天原たかまのはらみみててもの馬牽うまひてて、今年ことし六月みなづきつごもり夕日ゆふひくだち大祓おほはらへに、はらたまきよたまことを、もろもろたまへとのたまふ、

四國よくに卜部うらべども大川道おほかはぢ退まかでて、はられとのたまふ、

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Copyright (C) 2009 七鍵 key@do.ai 初版:2009年02月22日 最終更新:2009年02月22日