平野祭

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平野祭とは

最終更新
2009-02-14T20:20:14+09:00
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平野祭とは、「ひらののまつり」と読み、京都府京都市北区にある平野神社の例祭である。「延喜四時祭式」上(『延喜式』巻第一)の四月祭条に、平野神四座祭 今木神、久度神、古関神、相殿比売神、と記されている。毎年4月と11月の上申日に両度行われた。皇太子が奉幣する定めになっていた。

平野神社は、延暦13(794)年に桓武天皇による平安京遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始る。元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀られるようになったものである。『文徳天皇実録』によれば、仁寿元(851)年、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、貞観元(859)年には今木神に最高位の正一位の神階が授けられている。延喜式神名帳(『延喜式』巻第九)には「山城国葛野郡 平野祭神四社 並名神大、月次新嘗」と記載され、名神大社に列していた(2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。また、祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用されていた。中世には二十二社の一社(五位)となり、明治4(1871)年に官幣大社に指定された。

平野祭の祝詞

最終更新
2009-02-14T22:46:14+09:00
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祭神の今木神に直接奏するもので、奏上体形式の祝詞である。

平野祭

天皇御命、今木仕奉來皇大御神廣前白給、皇大御神、此處石根宮柱廣敷立、高天千木高知、天御蔭・日御蔭定奉、神主神祗某官位姓名定、進神財、御弓・御太刀・御鏡・鈴・衣笠・御馬引並、御衣・照・和・荒備奉、四方國御調荷前取並、御酒瓺戸高知、瓺腹滿並、山野甘菜・辛菜、青海原、波多廣物・波多狭物、奧都毛波・邊津毛波、雜物如横山置高成、獻宇豆大幣帛、天皇御世堅石常石齋奉、伊賀志御世、萬世御坐令在、稱辭竟奉申、

又申、參輯仕奉親王等・王等・臣等・百官人等、夜守・日守守給、天皇朝廷伊夜高伊夜廣、伊賀志夜具波江如、立榮令仕奉給、稱辭竟奉申、

平野祭

天皇すめら御命おほみことせ、今木いまきよりつかまつきたれる皇大御神すめおほみかみ廣前ひろまへまをたまはく、皇大御神すめおほみかみはしたまひのに、 ところそこ石根いはね宮柱廣みやばしらひろて、高天たかまはら千木ちぎたかりて、あめ御蔭みかげ御蔭みかげさだまつりて、 神主かむぬし神祗かむづかさそれの官位つかさくらゐ姓名かばねなさだめて、たてまつ神財かむたからは、御弓みとらし御太刀みはかし御鏡みかがみすず衣笠きぬがさ御馬みうまならべて、 御衣みそ明多閉あかるたへ照多閉てるたへ和多閉にぎたへ荒多閉あらたへそなまつりて、四方よもくにたてまつれる御調みつぎ荷前のさき取並とりならべて、御酒みきみかたかり、 みかはら滿ならべて、山野やまのものは、甘菜あまな辛菜からな青海原あをうなばらものは、波多はた廣物ひろきもの波多はた狭物さきもの奧都毛波おきつもは邊津毛波へつもはいたるまで、雜物くさぐさのもの横山よこやまごと高成たかなして、たてまつ宇豆うづ大幣帛おほみてぐらたひらけくきこしめして、 天皇すめら御世みよ堅石かきは常石ときはいはまつり、伊賀志いかし御世みよさきはまつりて、萬世よろづよ御坐おほまさしめたまへと、稱辭竟たたへごとをまつらくとまをす、

又申またまをさく、參輯まゐうごなはりてつかまつ親王みこたちおほきみたちまへつぎみたち百官人もものつかさのひとどもをも、まもりまもりまもたまひて、 天皇すめら朝廷みかど伊夜高いやたか伊夜廣いやひろに、伊賀志いかし夜具やぐ波江はえごとく、たちさかえしめつかまつらしめたまへと、稱辭竟たたへごとをまつらくとまをす、

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Copyright (C) 2009 七鍵 key@do.ai 初版:2009年02月14日 最終更新:2009年02月14日