平野祭
平野祭とは
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平野祭とは、「ひらののまつり」と読み、京都府京都市北区にある平野神社の例祭である。「延喜四時祭式」上(『延喜式』巻第一)の四月祭条に、平野神四座祭 今木神、久度神、古関神、相殿比売神、
と記されている。毎年4月と11月の上申日に両度行われた。皇太子が奉幣する定めになっていた。
平野神社は、延暦13(794)年に桓武天皇による平安京遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始る。元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀られるようになったものである。『文徳天皇実録』によれば、仁寿元(851)年、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、貞観元(859)年には今木神に最高位の正一位の神階が授けられている。延喜式神名帳(『延喜式』巻第九)には「山城国葛野郡 平野祭神四社 並名神大、月次新嘗」と記載され、名神大社に列していた(2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。また、祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用されていた。中世には二十二社の一社(五位)となり、明治4(1871)年に官幣大社に指定された。
平野祭の祝詞
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祭神の今木神に直接奏するもので、奏上体形式の祝詞である。
平野祭
天皇我御命尓坐世、今木與里仕奉來流皇大御神能廣前尓白給久、皇大御神能乞志給乃麻尓麻尓、此處能底津石根尓宮柱廣敷立氐、高天乃原尓千木高知氐、天能御蔭・日能御蔭登定奉氐、神主尓神祗某官位姓名定氐、進流神財波、御弓・御太刀・御鏡・鈴・衣笠・御馬乎引並氐、御衣波明多閉・照多閉・和多閉・荒多閉尓備奉利氐、四方國能進礼流御調能荷前乎取並氐、御酒波瓺戸高知、瓺腹滿並氐、山野能物波甘菜・辛菜、青海原乃物波、波多能廣物・波多能狭物、奧都毛波・邊津毛波尓至萬氐、雜物乎如横山置高成氐、獻流宇豆乃大幣帛乎平久聞氐、天皇我御世乎堅石尓常石尓齋奉利、伊賀志御世尓幸閉奉氐、萬世尓御坐令在米給登、稱辭竟奉久登申、
又申久、參輯氐仕奉流親王等・王等・臣等・百官人等乎母、夜守・日守尓守給氐、天皇朝廷尓伊夜高尓伊夜廣尓、伊賀志夜具波江如久、立榮之米令仕奉給登、稱辭竟奉久登申、
平野祭
天皇が御命に坐せ、今木より仕へ奉り來れる皇大御神の廣前に白し給はく、皇大御神の乞はし給ひの麻に麻に、
此の處の底つ石根に宮柱廣敷き立て、高天の原に千木高知りて、天の御蔭・日の御蔭と定め奉りて、
神主に神祗某官位姓名を定めて、進る神財は、御弓・御太刀・御鏡・鈴・衣笠・御馬を引き並べて、
御衣は明多閉・照多閉・和多閉・荒多閉に備へ奉りて、四方の國の進れる御調の荷前を取並べて、御酒は瓺の戸高知り、
瓺の腹滿て並べて、山野の物は、甘菜・辛菜、青海原の物は、波多の廣物・波多の狭物、
奧都毛波・邊津毛波に至るまで、雜物を横山の如く置き高成して、獻る宇豆の大幣帛を平けく聞しめして、
天皇が御世を堅石に常石に齋ひ奉り、伊賀志御世に幸へ奉りて、萬世に御坐し在さしめ給へと、稱辭竟へ奉らくと申す、
又申さく、參輯はりて仕へ奉る親王等・王等・臣等・百官人等をも、夜の守・日の守に守り給ひて、
天皇が朝廷に伊夜高に伊夜廣に、伊賀志夜具波江の如く、立榮えしめ仕へ奉らしめ給へと、稱辭竟へ奉らくと申す、
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