第6番札所 飯上山長谷寺

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飯上山長谷寺の基本情報

最終更新
2008-12-28T00:00:00+09:00
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http://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b06_hasedera2.html#basic
正式名称と通称
飯上山 長谷寺(いいかみさん はせでら) 通称:飯山観音(十一面観世音菩薩
本尊と宗派、開基と開基年
十一面観世音 / 高野山真言宗  / 行基菩薩神亀2(725)年
真言
おんまか きゃろにきゃ そわか
御詠歌
いひやまで らたてそめしより つきせぬは いりあひひびく まつかぜのおと
所在地と電話番号
〒243-0213:神奈川県厚木市飯山5605(0462-41-1635)
位置
緯度:35度28分17.965秒(35.471657)、経度:139度18分13.565秒(139.303768)
納経所
8時〜17時
前札所と次札所
前札所:第5番札所 勝福寺 / 次札所:第7番札所 光明寺
交通と駐車場
最寄駅は、小田急本厚木駅。
厚木駅からバスも出ている(バスで約15分、下車後徒歩10分)。
駐車場:大型(路上)、普通車50台
拝観料
-

飯上山長谷寺のその他情報

最終更新
2009-02-01T14:40:01+09:00
この記事のURI参照
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歴史と謂れ

この地より400メートルほど離れたところから清水が湧き、それが五色に変化する泉となっていたため、当時の里民は怖れて近づかなかった。神亀2(725)年、その地を訪れた行基が祈願すると、その泉の中から金の十一面観音像が現れ、行基の鉄鉢に飛び移ったといわれる。そこで行基は、末世度生の悲願をおこし、近くの楠を用いて三尺余の尊像を彫み、さきに感得した金像を胎内に納めてここに霊刹を設けたといわれている。更に、その後の大同2(807)年――一説には弘仁年間(810〜824年)――、弘法大師がこの地を訪れ、密宗の道場としたといわれている。

またもう一つの別の縁起も伝わっている。この地の信心深い領主飯山権太夫が旅僧に一夜の宿を布施したところ、そのお礼にと行基の作にして大和長谷寺の本尊と同木で造ったという観音像を権太夫に授けた。権太夫は早速観音堂を建立し落慶供養を営んだが、旅の僧は既に姿を消した後だった。これが、長谷寺の始りといわれているが、残っていた笈の中に五鈷杵のみがあったことから、権太夫に観音像を授けた僧は弘法大師だったと考えられている。

鎌倉時代には、四宗兼学の寺として栄え、鎌倉の覚園寺、金沢の称名寺と交流があったとされる。その後、嘉吉2年には本堂が炎上、その時再建されたのが現在の御堂である。

堂塔

長谷寺の観音堂は、厚木市指定有形文化財で、嘉吉2年再建。桁行き五間(三十九尺)、梁間五間の正方形の銅板葺きの宝形堂(以前は茅葺)。正面中央間とその両脇間は両折桟唐戸、両隅間は連子窓で、側面も前一間を両折桟唐戸とし、四周には木口縁をめぐらし、擬宝珠高欄をまわしている。堂内は、前二間の外陣と後三間の内陣に別けられ、内陣には、寛文12(1672)年に大工西海氏によって造られた厨子(市重要文化財)が安置され、その中に本尊の木造十一面観世音菩薩が納められている。堂内には、役の行者の像もまつられている。

長谷寺の鐘楼銅鐘は、神奈川県指定重要文化財。本堂の右手前にあり、当時の住僧が晨昏の例鳴を怠った際、その夜に鐘の行方が知れなくなり、のちに夢告によって地中より掘り出したとの伝説が残っており、「飯山の隠れ鐘」と呼ばれている。『坂東霊場記』には、「若し病者此の響を聞て至心に大悲者を持念すれば、病の愈ゆること流れに物を洗ふ如し」とあり、関東の地ではじめて清原国光が鋳造した名鐘(嘉吉2年:1442年)。当寺の鐘は、第二十五番筑波山第二十九番千葉寺とともに坂東札所三霊鐘の一つとされている。境内には、「梵鐘の 余韻若葉の 峡渡る」の句碑が立てられている。

長谷寺の仁王門仁王門は、建久年間(1190〜99年)に源頼朝が秋田義景に命じて造営させたといわれる。三開一戸八脚門の寄棟造。「無門関」の扁額がある。仁王像は、宝永年間(1704〜11年)に飯山村の安西金左衛門が願主となり造立したものである。

行事

その他の情報

当寺の鐘は、第二十五番大御堂第二十九番千葉寺とともに坂東札所三霊鐘の一つとされている。

イヌマキは、厚木市指定天然記念物。かながわの名木100選の一つで、高さ17m、目通り2.74m、樹齢およそ400年。

境内及び参道入り口には、室町時代のものとみられる宝篋印塔や五輪塔、板碑、などが並んでいる。

『風土記稿』には、飯山寺と号し、長谷観音と唱ふとあり、「飯山寺」の呼称は観応元(1350)年の文書、「長谷観音」は嘉吉2(1442)年の鐘銘による。

縁結びの観世音として信仰者が多い。本尊開帳の日には、広場の見合いの松や夫婦松でお見合いして結婚した花嫁が、盛装して参詣する風習がいまでも残っている。また、この日に松の下で見合いをすると結ばれることが多いとされ、未婚の若い男女が着飾って参詣する姿も見られる。

縁起にもある本尊が出現したとされる泉は、「彼の泉の流れを服するに諸病愈ざる者なし」といわれている。

本堂裏には、文化7(1810)年「山上白山宮道、是より五丁」の石標があり、この寺に丹沢山塊一帯の修験の信仰があったことを示し、江戸時代までは白山修験の行場だったと考えられている。

長谷寺の観音石仏境内には、坂東三十三霊場の観音石仏が順に置かれ、寺を一回りすると三十三観音にお参りができるようになっている。

新神奈川八景にも選定され、門前には飯山鉱泉の宿がある。

当地には飯山の七不思議が伝わっており、その一つ「観音堂の亀甲松」が本堂の前にあったが、近年枯れてしまった。

飯山の七不思議

弘法の米とぎ水
飯山の地名の起源の一つとされた飯盛山から湧き出した堀水は、米のとぎ水のように白い水だった。また、付近の井戸水も同様であったといわれている。弘法大師がこの地に托鉢に出た際、そこで得た米を毎日山麓の庵でといだため、白い水が流れ出したとの伝説が残っている。
亀甲の松
飯山観音の境内に亀甲松と呼ばれる松があり、この松の木肌は枝先まで六角形状の亀の甲羅模様がくっきりと見られた。当時のものは枯れてしまったが、昭和39年に盆栽愛好家がこの松の実を持ち帰り育てていたものの1本が親松の後に植樹されている。
久保の万年橋
行基がこの地を訪れた際、光福寺の前の小川に橋をかけた。その橋は、以来一度も架け替えられたことがなく、万年橋と呼ばれている。また一説には、木橋だったころには再三洪水で流されていたが、石橋にしてから流されなくなったため、万年橋と呼ばれるようになったともいわれている。いずれにしても、今その橋は姿を消してなくなっている。
千が沢の貝殻石
白山より小鮎川に流れ落ちる沢の中で、貝の化石紋のある石が見付かる。
弘徳寺の袈裟掛けの松
飯山の千頭にある弘徳寺。鎌倉時代に親鸞が、関東布教の際に植えたといわれる松がある。親鸞は、「吾が信ずる本願は諸行にあらず、一向専念の宗義なれば二心並立にあらずして一心なり、この法諸仏の本意に叶うならば、二葉を捨てて一葉たれ」と祈願し、ここの松の葉は一葉になったといわれている。通常、松の葉は二葉であるため、「一葉の松」とも呼ばれている。親鸞が植えた後に、覚如上人が袈裟を掛けたため、袈裟掛けの松とも呼ばれている。この松は、昭和35年に枯れたため伐木し、現在は本堂の前に根元の木口だけが残っている。
恩曽川の片葉の葦
恩曽川ではたびたび水死事故が起こり、それを河童の仕業だと考えた住民達が川をせき止めたところ、思ったとおり河童が現れたといわれる。住民達が河童に問い質したところ、「確かに私がやりましたが人間も自分勝手だ、我々の静かな住まいに乱入し、水は汚すは毎日騒々しいはで一族の危機に陥っている。もうやらないが、人間も河童の権利を認めてくれ。河童の住まいの目印は、片葉の葦だ。」と言ったといわれている。
白山池の霊水
飯山観音の裏、標高284メートルの白山、その絶壁の頂上には1メートル四方の小さな池がある。不思議なことにその池は、いかなる干ばつにも水が涸れなかったと言われている。そのため日照りが続き農作物が心配なとき、農民達はこの池の水を空にして雨乞いをした。すると、やがて一天にわかにかき曇り、三日三晩雨が降り続くといわれている。この池は、白山に住む白龍の水のみ場と言われ、飲み水がなくなると雨を降らせるとの伝説が残っている。また、この話から、神奈川五十選の飯山白龍太鼓が作られた。

飯山の七不思議

長谷寺への道

長谷寺への歩道入り口

長谷寺の境内

長谷寺の境内

長谷寺の境内

長谷寺の境内

長谷寺の境内

長谷寺の境内

長谷寺の境内

長谷寺の境内

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