2010年1月下旬

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2010年1月31日

読書感想文――功名が辻

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2010-01-31T19:59:05+09:00
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司馬遼太郎の『功名が辻』を読了、四巻組。主人公は、初代土佐藩主山内一豊と、その妻千代。戦国時代、牢人同然の夫を一国一城の主にすべく、さまざまな智慧をもってその夢を実現させたとの、一豊よりはどちらかと言えば千代に主題がおかれた作品。実際の二人がどのようであったかを知る由もないが、むしろ一代で土佐一国の国主にまで登りつめた一豊がこの作品のように凡庸であるはずもないが、物語としてはうまくまとまっていて面白い。作中の千代は、まさに諸葛亮孔明のごとき先見を持ち、その先見を隠して世間知らずの呑気を装った上で、夫の自尊心を傷つけぬよう巧みに一豊を操り、ついには一国の国主にまで一豊を持ち上げてしまう。「しまう」と表現をした理由は、『功名が辻』を読んでのお楽しみとして頂きたい、物語が終盤へ差し掛かるにあたり、徐々に一豊の機微に焦点が当てられ、隠された二つの重要な主題が明らかになる。

このあたりが歴史物語の面白みであり、歴史の教科書とは異なる点であろう。歴史物語では、殊更、主人公が美化される。中には、時の政権によって作られた英雄や悪役もあるだろう。しかし、美しくない生き方をした歴史上の人物は、物語の主人公として相応しくないため、長い目でみると自然に淘汰され、後々まで語り継がれる主人公や悪役たちを通して、結果的ではあるが、我々は先祖たちと美的感覚を共有することができる。歴史の教科書には、登場人物の心境までは出てこない、しかし、歴史物語は登場人物の心境を用い、心境をもって読者に主題を語りかける。本当に、英雄たちがそのような心境でその場面に望んだか、歴史物語ではその真偽は問題にならない。ここに大きな違いがあり、両者を混同してはならない。主題をもって、我々は歴史を勉強しているのではない、先祖たちの美的感覚を学んでいるのである。

話が少々逸れたが、『功名が辻』は未だ比較的歴史の浅い物語である。語り継がれるも何も、小説の一つでしかない。が、私感ではあるが、ぜひ後世に語り継ぎたい物語である。その点、うまくまとまり面白いと感じる所以である。

読書感想文――ツァラトゥストラ

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2010-01-31T22:10:33+09:00
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ニーチェの『ツァラトゥストラ一』(中公クラシックス:手塚富雄著)を読了。寝ようと思い、蒲団の中で読んでいたのだが、気づけば読み終っていたので再度パソコンの電源を立ち上げ現在にいたる。実はこの本、もう何回か読んでいて、にも関らず、未だに何を言いたいのか読み取れていない。何か重要なことを言っているのではないか、もうある意味直感でしかないのだが、そのようなことを思うため、私にとっては珍しく何回も読み直している本である。いまいち解りづらいのは、日本の文化を基に書かれていないこと。そればかりではなく、私には原文を読む知識がないこと。その他もろもろ、例えば私の理解力の問題も一つの原因で、読む度に、自身の都合の良いように解釈してしまう。一体ニーチェは、ツァラトゥストラの視点から何を言いたかったのだろう。ハイデガーのニーチェ論などを読んでも、さっぱり伝わってこない。

この本、実は決定的な欠点があり、それが訳者の註釈。あまりにも我慢できず、括弧との記事を書いたのだが、今回はカギ括弧に意識をとらわれ過ぎた読書になったように思う。中村さんは、自分の意図を誰かに正しく傳へようとする人間らしい意思の否定と、勝手な解釈の是非について疑問を呈しておられたが、この本に限って言えば、カギ括弧は邪魔でしかあり得ない、作者――訳者――の怠慢である。かくいう私も、訳者の註釈に頼ろうとの怠慢を発揮しているため、とてもではないが人のことは言えない。蒲団の中からはい出て来たのは、中村さんにそのことを伝えたかったため。音沙汰がなくなったので、お互いの齟齬を解決する機会ももうないと思い、最初の中村さんの疑問に対し思ったことを述べておきます。ニーチェには、観念的なものの言い方は許される。しかし、註釈を加えるものには、観念的なものの言い方は許されない。自分がツァラトゥストラに対しどう思っているか、それを誤魔化しての註釈などあり得ない、これが怠慢と極め付けた理由であり、齟齬が解消されてから私が説明したかった動機です。ちなみに、私が『ツァラトゥストラ一』で最も好きなのは、『詩人』の項。続いて『学者』の項。自身に向けて書かれた主張として、そろそろ註釈なしで読むことができそうです。

中村さんへ

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2010-01-31T22:17:48+09:00
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読書感想文――ツァラトゥストラを書き、ふと思い、以前宣伝いただいたURLに再度アクセスした。言いわけでしかないが、前回は見落としていたのです、申しわけない。見覚えのある文字列が、そのリソースの左上に書かれていたではないか。URLを云々との一文は、このことを示唆していたのでしょう、大変失礼をいたしました。「はじめまして」などと書いていた自分が恥ずかしい。

中村さんへ(2)

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2010-01-31T23:19:36+09:00
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せっかくなので、Antenna 7keyに登録しました。定期的に拝読いたします。

ちなみに。Antenna 7keyとは、私が定期的に拝読しているサイトを登録した、まあいわば私的なリンク集にアンテナ機能――前回の閲覧より更新があったか否かを知らしめる機能――を付加した、Key:雑学事典唯一のリンク集です。最近では、こちらに登録してあるサイト以外は、Google様経由でしか観ておらず、私のブックマーク機能を備えたページです。概要はさておき。私的なブックマークとは言え、世界に対して公開している事実があるため、中村さんのお気に召さなければいつでも仰って下さい。

ブックマーク

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2010-01-31T23:46:48+09:00
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私のHTTPブラウザに登録されているブックマークは、以下の通り。

多いか少ないかは別にして、順番は、HTTPブラウザ――Operaに登録されている順番。上記以外では、たまにWikipediaYouTubeをサーフィンするくらいで、その両者すら、Google様経由。インターネット上で、コミュニティに属したいとの思いを感じたことも、紛れもなくある。十年以上前は麻雀サークル、その後音楽系、その次はアングラ系、その後十年ほど前はホームページ作成掲示板、五年ほど前は社会科系・哲学系、三年ほど前は旧字旧かなといった具合に。その他、合間、合間ではいちいち挙げるのも面倒なほど。が、結局。上記プラス自分のアンテナくらいしか閲覧しなくなった。WWWを介し、人との繋がりを求めたいとの感情を持ちつつ、もう良いかなとの妥協も同時に持ちつつある。だからこそ、無いものねだり、新たに声をかけてくれる人がありがたくて仕様がない。甘えだとは判っているのだがね。独りでモチベーションを保ち続けられるほど、WWWは優しくない。が、私は、独りでそのモチベーションを保ってゆかなければならない。そこに、私の中に、葛藤が生まれる。

寝ようと思ってからすでに、既に、二時間が経過。こんどこそおやすみなさい。

七鍵

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2010-01-31T23:59:48+09:00
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ちなみにちなみにあのね。当初、自身のハンドルネームを「七鍵」としたころは、もうね、ものすごい反発があったの。人の名前らしからぬ、というのが主だった、且つ唯一の理由。だから、実は。「七鍵さん」と呼ばれるとこそばゆい。当初の反発が故に、当の本人が、「七鍵」を人の名前だと感じていない。「www.7key.jp」なるドメインを取得し、やっと、「七鍵」は定着したと、私は思っている。その前のハンドルネームは、ナイショ。

何年か前にも書いたが、「七鍵」を人の名前だと思っている人たちは、というより、私を識別する記号として「七鍵」を眼にしている人たちは、「七鍵」をなんて、脳内で発音しているのだろう。それが気になって仕様がない。私は、便宜上、というより必要に迫られて、「七鍵」と文中に記す際、7keyと打鍵する、そこに、発音なるものは存在せず、しいていうならば、「ななけい」である――単語登録しているから可能であり、普通はそんな変換はなされない。そもそも、呼ばれることを想定せず、記号として発案した文字列でしかないため、このような疑問を生ずるにいたる。反省はしていないが、もう少し何か選択肢があったのではないかと、そのようなことを考えつつ、気になっています。格好の良い発音を募集中。

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2010年1月30日

碧い月

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2010-01-30T20:24:33+09:00
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2010年1月28日

携帯電話

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2010年1月27日

括弧(3)

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2010-01-28T00:31:21+09:00
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括弧(2)へのコメントをいただいた。前回の私の文章に対する返答であることに間違いはなさそうだが、私の疑問点は何一つ明確になっていない。中村さんの括弧へのコメントは、取り敢えず忘れます。前回のコメントと今回のコメントの繋がりにも触れないようにします。中村さんが重要だと思うのであれば、再度はなしを蒸し返してください。以下は、新たなコメントへの返信として書きます。

何の爲(「作者の定義をその語に付加したから一般的な用法とは異なる、そう明示するため」)に括弧を附けてゐるのか解るのなら括弧そのものには何の問題も無く、その定義を括弧だけで濟ませてどこがどう異なるのかまでちやんと説明しないのが惡い。つまり括弧は立派な隱喩ではないか、と言ふか七鍵さんは明示とまで書いてゐるではないかと云ふ事です。

となると括弧に取り立てて目を向ける意味は無い。「作者の定義をその語に付加したから一般的な用法とは異なる」事を全く明示しない場合も、括弧だけして十分な説明を缺く場合も同樣に惡文だと言へます。それならどちらかと言へば括弧だけでもした方がまだマシではないかと、と言ふのも使ふのが難しい用語にも拘らず何の説明も要らないと安易に思つて文章を書いてしまふ場合もあるので。

中村さんは、つまり括弧は立派な隱喩ではないか、と言ふか七鍵さんは明示とまで書いてゐるではないかと云ふ事ですと仰るが、これは中村さんの勘違いだと思います。再度、わたしの主張を読み直してもらいたいのですが、明示をしていると書いたのは括弧の用法についてであり、隠喩すらしていないと書いたのは括弧に括られた語句の定義です。明示は括弧のことを、隠喩は括弧内の語句のことをそれぞれ書いています。前提が違うため、この文章にはこれ以上ふれません。また、その後の文章も、この文章を受け、となると、さらにそれならと続くため、以下の文章にも触れることを避けます。既述の、明示と、隠喩すら、の違いに気づいて頂ければ、私の言おうとしていることが理解できるのではないかと思います、私の主張が理解できるか否かとは別の問題です。

以下は、中村さんがどう勘違いをしているのかを推測しての話です、誤りがあればご指摘下さい、どう前提が違うのかとの話です。中村さんは、"「犬」"と書かれた場合と、"犬"と書かれた場合では、何かしら意味を持たせていることを明示しているだけ前者の方がより良い、もしくは前者と後者に違いはない、そう仰っているのだと思います。その理由として、括弧で括ろうと括らまいとその語句には作者の定義が含まれているのだから、と仰られている。その時点ですでに、私の主張と前提を異にする。再度読み直していただければ明らかなのですが、私は、定義があることだけを示し定義の説明のない語句を用いた文章、これを悪文だと申し上げているのです。作者独自の定義がその語句にあるのであれば、"犬"よりは"「犬」"の方がより好ましい、それは当然です。そのようなことは問題にもしていません。"「犬」"よりも"赤くて小柄な犬を「犬」とする"と説明があった方がより好ましい、何故、「赤くて小柄な」を省略するのかということを主張しているのです。"犬"でも"「犬」"でもない、定義があるならばなぜその定義を説明しないのかと主張しているのです、前提の違いに気が付いて頂けるでしょうか。

一往URLを書いてゐます。

昨日は特に興味を持てなかったので見ていませんでした。わざわざ宣伝いただいたので、折角だからとお邪魔しましたが、ええと、私に何をどうしろと仰るのでしょうか。こちらには書かれていない衝撃的なことでも書かれているのかと思いきや、私の勝手な期待は裏切られてしまいました。URLは結構ですから的を得た主張をお書きください。また、URLが示すリソースに詳細な説明を書かれるのであれば、その旨仰ってください、定期的に拝読に伺います。

2010年1月26日

括弧(2)

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2010-01-26T22:05:30+09:00
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括弧へのコメントをいただいた。

「概念的な語句が括弧で括られる」事があるのは、少なくとも、使はない方が筆者にとつて説明するのは難しいと思はれる概念の説明を試みてゐるからです。同じく強調も説明の繼ぎ足しも、大なり小なり問題意識の表現と云へます。

勝手に解釋されても良い文章があると云ふ主張は、自分の意図を誰かに正しく傳へようとする人間らしい意思の否定であり、それは人間にとって許し難い論理であると考へられます。

中村さん、はじめまして。コメントをありがとうございます。

一段落目は、申しわけない、意味が判りません。具体的には、使はない方が筆者にとつて説明するのは難しいと思はれる概念の説明を試みてゐるからですの部分。「括弧を使うことによって、筆者の文章力では説明しきれない概念であることを告白するために、概念的な語句が括弧で括られることはあり得る」と、その前の文章も含めて読み取りました。そう読むと、大なり小なり問題意識の表現である、との後ろの文章とも繋がります、一読した際にはここまで考えてなく素直にそう読みました。

しかし、二段落目を読むと意味が解らなくなる、というより私の中で一段落目と二段落目の繋がりを理解できなくなりました。説明をしきれないなど問題意識の表現という理由から筆者の都合で括弧書きをした語句と、自分の意図を誰かに正しく傳へようとする人間らしい意思を結びつけることができないのです。自分の意図を正しく伝えたいと願うのであれば、語句を括弧で括るよりも先ず、何としてでもその語句を説明しなければならないと思うからであり、説明の難易は関係ないとも思うのです。また、どういった問題意識を筆者がもっているのかを説明した方が、筆者の意図は読者に正しく伝わるのではないかと考えます。説明なしに「犬」とするより、赤くて小柄な犬を以降「犬」と表現する、と書く方がより良い、そう考えています。

ちなみに、「意図」は「意圖」、「とって」は「とつて」とそれぞれ書く方が、文章のイメージが統一されて良い、私はそう思います。それとも、こちらも括弧書きや強調の類なのかと、そのようなことを考えながら文章を読んでしまいました。閑話休題。

何はともあれ、もう少し詳しく説明をいただきたい。私は、おそらく中村さんの意図を正しく読み取れていないと思っています。ばかりか。実は、中村さんの表現に疑問を感じている点もあり、「文章で表現仕切れないこと」と「文章で説明するのが難しいこと」は何が違うのか、「勝手に解釈されても良い文章」と「勝手な解釈をされても仕方の無い悪文」は読み手の印象が異なると思いますよ、など思うところが何点かあります。もう少し話におつきあい頂けるのであれば、そういった互いの齟齬を払拭してからにしたいと思います。私は、説明なしの括弧書きを筆者の怠惰だと考えており、誤読のもとになる悪習慣だとも考えています。

文章のリズム

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2010-01-26T22:22:02+09:00
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ちなみに私は。同じ語尾を繰り返した文章に違和感を覚える。「すみません、意味が判りません」や「申しわけありません、意味が判りません」より、「申しわけない、意味が判りません」をより好む、感情論。語尾に限らず、音感が似た表現を繰り返すと、その文章のリズムが崩れるような気がしてならない、感情論。それ以外にも、傍点を使うリズム、漢字とかなを用いるリズムなど、文章の意図よりも文章から受ける印象に目がいってしまう。比較論の問題であり、文章の伝達力をないがしろにしてよいはずはないが、伝達力を損なわない程度にリズムで遊ぶ、文章にはそのような遊び心が大切だと思っている。

2010年1月24日

読書感想文――義経

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2010-01-24T02:35:09+09:00
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司馬遼太郎の『義経』を読了。人の生涯とは美しくなければならない、あたかも完成された楽曲のように。『義経』を読み、改めてそう感じさせられた。言うまでもないが『義経』とは源義経を描いた作品であり、際立った斬新さというものはなく、日本人ならば誰でもが知っていよう源義経の物語である。むしろ、司馬遼太郎は当り前に、一般的に流布されている義経像を壊さないようにこの作品を仕上げようとした感すら見受けられる。幼少時代を経て、兄頼朝の元に馳せて平家を討つも、鎌倉との仲違いのために非業の死を遂げる、大河ドラマや漫画、『義経』以外の源義経小説、さらには映画や演劇などで描かれる源義経の半生そのものである。斬新でもなく、物語としてはストーリーから結末まで日本人であれば誰もがよく知っている、にも関わらず源義経の物語は面白い。それは、源義経の生涯が美しいからではないか。誤解をおそれずさらに言えば、源義経の生涯を美しいと感じる日本人が多いからこそ、よく知られている物語であり類似作品でしかない物語がこれだけ多く作られているのではないか。義経が自身の生涯を美しいと感じていたかは判らない、むしろ失意の内に生涯を閉じたのかも知れない。が、千年近くも経つのに義経の物語は今もなお語り継がれている。幼少時代のイントロがあり、兄の元に駆けつけるAメロ、無為に過ぎる日々のBメロ、平家討伐のサビ、鎌倉から絶縁状のCメロ、そしてドラマティックなエンディング、語り継がれないはずがない。自身の生涯をここまでメロディアスでドラマティックな楽曲として奏で続けるのは、凡人には難しいかも知れない。ましてや、平和の狭間にいるこの時代の日本人では、萬人はおろか億人に一人もメロディアスな人生は創り上げられないかも知れない。義経ほどの楽曲になると、日本史上唯一と言っても決して言い過ぎではないだろう。しかし、凡人にも自身の分にあった楽曲を奏でることはできるはずであるし、むしろその曲を意識して日々を過ごさなければならない。Bメロなくしてサビは活きず、Cメロなくしてのエンディングは冗長でしかあり得ない。BメロであれCメロであれ、精一杯に奏で、常に美しいか否かを意識しなければならない。楽曲であれば練習も作り直しもできようが、人の生涯には練習も待ったも無いのだから、その結論を常に、自身の美意識に照らし合わせ、必要であればDメロ、Eメロ、Fメロを創り上げねばならないのである。が、楽曲と比較するまでもなく、物語も生涯もシンプルであるにこしたことはない、義経のストーリーの様に。

恣意

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2010-01-24T02:56:33+09:00
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逆説的ではあるが、一つの楽曲を一人の人生として聴いてみるとよい。楽曲とは人生の一こまであり、作曲/詩家はもちろんそのことを意識して楽曲を作成する。素晴らしい楽曲になると、人生そのものが描かれている。楽曲も小説や映画などと同じで、どのように下らなそうにみえてもそこから得られるものは充分にあり得る。下らないと断じるのは容易いが、下らないと断じる前に、下らないとしか感じられない自身の感性を恥じなければならない。

pair of the SEAS

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pair of the SEAS

更新履歴――佐白山観世音寺ほか

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2010-01-24T16:13:32+09:00
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一か月以上前に訪れて、今まで放置していたページたち。

カエル週間

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2010年1月21日

僥倖

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Copyright (C) 2010 七鍵 key@do.ai 初版:2010年01月22日