2008年9月上旬

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今日は何の日(Javascriptを使用しています)。

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2008年9月10日

to Mr. MIYAKE

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2008-09-11T00:45:00+09:00
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言及に就いて(其の二)は、意味が解らないので終了。MIYAKE と書くなら三宅が普通ですなどと書いてある末尾には、powered by MIYAKE Ryutaro ©2004–2008などと宣言をしてゐる。「三宅」さんと記して欲しいのであればそちらも改めるとよいだらう、ソースよりも先に該當部分が目について「MIYAKE」さんと書いたに過ぎない。この人、いちやもんばかりで意味が解らない、どこまでも話をそらさうとする方とは話をする利點を見出せない。私は本質の話をしてゐるとしきりに言つてゐるにも關らず、何としても先後の話にしたいらしい。更に、しきりにHTML方面に話をこぢつけてる姿勢は何なのだらう、意味が解らない。いや、意味は解つてゐる、そこにMIYAKEさんの欺瞞を見出すからこそ、話をこれ以上續けるつもりがないのだ。音樂の話であれば好んでするが、經緯だの歴史だの何だのの話には興味がない。

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2008年9月9日

music(5)

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2008-09-09T22:45:13+09:00
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だから、現代音楽と称されるもの、すなわち、個人が「俺流の表現」を主張する、あるいは、主張出来る音楽※は、クラシック音楽から生まれたのではないのですか。 物事には順番がある。 七鍵さんは「現時点」で音楽ジャンルを並列して述べている。 それが をかしい。

誰も現代音樂の起源についての話などしてゐません、私は音樂の本質について話をしてゐるだけであり、起源がどうのとの話をしてゐるわけではない、そのやうなことは今まで一言も申してをりません。なぜさう、無理矢理話を別の方向にもつてゐかうとするのか、それはもう音樂との話題はどちらでもよく、あくまでもMIYAKEさんは自身の主張を押し通さうとしてゐるにすぎない、私にはさう感じられます。

奏者の意思に拠る揺らぎとかファジーとか、もちろん、そういう物も認めるけれど、それは それぞれ個人が自由気侭に演奏する事(表現する事)でしょうとMIYAKEさんはいふが、だからなぜさう音樂にルールを持ち出すのでせう、私には理解できない。MIYAKEさんは、自由氣まゝに奏でるものを音樂とは見做さない、さう仰られてゐる、それを反省できない独り善がりの音楽と極め附けてゐる。それはあくまでも輯團で音樂を奏でることばかりが先立ち、音樂に向き合つてゐない者の偏見でしかない。クラシックを交響樂と等しく扱つてゐる當り――いつの間にか交響樂をクラシックと置き換へての話になつてゐる――にもMIYAKEさんの無知が見へ隱れするのだが、といふよりクラシックやら現代音樂――そのやうな單語も初耳なのだが――との話題がどこから出てくるのか、その當りに話をどうしても誤魔化したいMIYAKEさんの欺瞞が見へ隱れしてゐる。どうしても起源の話にしたいのであれば、クラシック音樂がどこから生れたのか、さういふことに考へをはせてみてはいかがでせう。誰も現代やら過去やらの音樂の話をしてはゐない。それどころか、MIYAKEさんの知らないところで過去の偉人逹はどこまでも機微を追求してをり、現代の數少い音樂家逹はその偉人の意思を引き繼いでゐる。交響樂的な話をすれば、何故先人逹がバイオリンにフラットを設けなかつたのか、それを無視しての音階だのなんだのとのクラシック話を聞いても滑稽でしかあり得ない。パガニーニやバッハほど「俺の」を追求した音樂家逹は現代でも充分「流行」つてをり、彼らはみな機微を表現し得る樂器を好んで使つてゐる。

2008年9月7日

Tokyo

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2008-09-07T19:52:27+09:00
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東京でも鈴蟲が鳴くのだな、知らなかつたよ。ゴキブリがゐたことにも驚いたし、瀬戸内よりも櫻の木の數が多いことにも驚いた。公園に行けば四季折々の花がちやんと咲いてゐる。旅行者として接するイメージと、住むことによつて感じるイメージは違ふものなのだな。コンクリートだらけの風景の中で稀に見られる新鮮な風物が珍しいだけなのかも知れない、がこゝも日本なのだ。

I didn't know the bell cricket was in Tokyo, too. I was surprised at what I had a cockroach in Tokyo, and surprised that there're more numbers with which the bloom is in than Setouchi in Tokyo. A flower in each season is in bloom at a park. The impressions to Tokyo are different by a traveler and a resident. It may be I'm just searching for seasons in the concrete, but it's certain that this is also Japan.

2008年9月6日

music(3)

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2008-09-06T12:37:21+09:00
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(前略)「俺流の表現」なんて一切ナシ。 一方、上手い奏者は、楽曲に依ってソロを担当します。 交響楽では唯一ささやかな「俺流」が許される部分で、限られた奏者ということになります。

ニニ・ロッソや日野皓正といった個性的な演奏をする奏者でも、オーケストラの一員になれば「俺流」の演奏はしない。 あるいは、他の奏者との軽いセッションでも、自分の「持ち場」をよくわきまえて居ます。 プロの、プロたる由縁。(後略)

MIYAKEさんの擧げた奏者のことを私は全く知らないので、どれほど個性的な音樂家か判らないのだけれども、結局は「交響樂」が演奏をするには窮屈な場といふだけの話です。窮屈とは、「音の機微こそ音樂の本質」と見做す私の音樂への考へ方からくる感覺であり、特に交響樂への他意はありません。交響樂がMIYAKEさんのいふ通りの演奏の場であるならば、私は窮屈に感じるだらう、そこで演奏をしたいだなんて思はないだらう、さういつた意味です。

あくまでも感覺的な話であり、萬人共通の統一された「音樂の本質」などあらうはずもありません。MIYAKEさんは交響樂がお好きなのでせうか、交響樂に限つた話をされてゐる。しかしそれは、交響樂がどのやうなものかとのことを喧傳してゐるに過ぎず、決して音樂についての考へではありません。むしろ、交響樂における音樂への制限を、全ての音樂に適用しようとしてをられる。MIYAKEさんがどのやうな音樂の聽き方をしようとそれは良いのだが、交響樂のルールが全ての音樂に適用されるとの一方的な考へ方はいたゞけません。先入觀をとつぱらつて音樂に觸れてみてはいかがでせうか。音樂とは、そのやうに堅苦しいものではありませんよ。

難しい話はさて措き、ギターでも調律(音合わせ)に音叉を使います。 これも音。 チューニングしたギターの音と、音叉の音は違うと思いませんか。 同じようにチューニングしたトランペットも、ピアノも、クラリネットも、それぞれ楽器に依って全て違う。 仮に基準 C (ツェー、いはゆるド)を鳴らしても、楽器が違えば音色などは違う。 実は同じトランペットでも微妙に違います。ギタリストがアコースティックは良いと言って居るのは、微妙な音の違いを指して居ることが多い。 これを一般に「音の機微」と言います。 だから、人間がわざわざ何かをする必要はありません。

私は今まで、「微妙な音の違ひ」を指して「機微」とは一言も申してをりません。一般にそれを指して「音の機微」といふのであれば誤解をまねく表現であつたことをお詫びしますが、私はそのやうな一般的とMIYAKEさんが仰られる用法を聞いたことがない。MIYAKEさんは樂器個々の音の違ひを「音の機微」だといひ、それは一般的な言葉であると仰られてゐる。交響樂の世界では一般的な用法なのでせうか、どなたかご教授下さい。

私がこゝまで表現してきた「機微」の定義とは、「奏者の意思によつて左右される音の搖らぎ」である。奏者の意思によらない、ましてや奏者の拙さからくる音の搖らぎなど問題にもしてをりません。更にいふと。MIYAKEさんはだから、人間がわざわざ何かをする必要はありませんと斷じてゐるが、私はさうは思はない。曲や場によつて奏者が樂器を選ぶのも「機微」の一つです。同じ樂器であつても、曲や場によつて奏者が樂器手を加えることは、私の定義する「音の機微」です。ギターを例に擧げられてゐるのでそれに倣ふと、いつもはスティール弦を用ゐるが今日はナイロン弦の氣分だ、この曲にはフラットレスを使はう、半音下げもたまには良いかも知れない、これらは全て私の定義する「音の機微」に内包される。もちろん、眞先に例として擧げたビブラートやチョーキングのやうな技術による音階の搖らぎも機微の一つ、リズムにおける「前のめり」や「もたり」といつた律動の搖らぎも機微の一つです。なぜそのやうな機微が必要なのか、音樂家逹は機微を求めるのか、そこにこそ音樂の本質があるとさう申し上げてゐるのです。

I'm sorry, my capability was unable to translate this text into English.

music(4)

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2008-09-06T20:41:38+09:00
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やはりといふか何といふか、音樂について話をするとどうしても音階の話に寄つてしまふ。音樂を形成する要素は音階と律動である。それらはどちらも音樂との場において等しく、對等な立場にあり、それでかつ尚、お互いに獨立した要素である。音階だけで音樂となり得るのであれば、律動だけでも音樂となり得る。逆説を弄してゐるのではない、私は律動に重點をおいた音樂を愛して止まないものの一人である。

律動に携はつたことのない方に説明をすると不思議な顔をされることが多いのだが、律動だけでもメロディを奏でられることをご存知だらうか。ギターを調律するのと同じく、ドラムにも調律がある、レコーディングの際にはベードラをその曲のルートに合せる、そのやうなことを話してゐるのではない。例へば、スネア一つをとつてもドラマーはメロディーを奏でてゐる。音樂家逹の奏でてゐるスネアに意識を向けてみるがよい、氣持ちが良いくらゐに周期が一定してゐないことに氣附くだらう。こゝぞといふときには必ず周期を外す、それが音樂家である。

2008年9月3日

music(2)

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2008-09-04T02:31:10+09:00
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あと、ビブラートは音樂の本質ではない。純然たるビブラート等と云ふものは存在せず、或音階の音をビブラートさせられるだけだ。

樂譜は「音階によつて規定された音の輯合の時間軸に沿つた流れ」である。

演奏者が自己の判斷によつてビブラートを附加へる。しかし、かつてはさうした效果は、注目されるべき演奏者にのみ許された。今はその種の演奏法が濫用される傾向がある。Wikipediaで調べた限りではさうみたい。

ビブラートのやうなものは音樂の墮落である。「人でなければ表現できないもの」を求めるのは現代的な欲求だ。電子テキストを排斥し紙の本を珍重するのと同じセンチメンタリズムに過ぎない。

この考へは、私には到底受け入れられるものではない。野嵜氏は、樂譜なり音階なりが先ずありそこから音樂が生ずると思つてゐると推測するのだが、それは大きな誤りだ。できあがつた音樂を便宜上、機械的に表現し直したものが樂譜や音階である。先ずは「人でなければ表現できないもの」が先にあり、それを何とかしようとするがために樣々な技術や樂器が生れ、それを後世に殘さうとした手段――それ以外に方法がなかつた時代に生れた先人の智性の結晶――が樂譜であり音階である。詳しいことは知らないが、私は音階よりも先にビブラートやら何やらの「人でなければ表現できないもの」が生れたと想像してゐる。音階に限つた話をすれば、むしろビブラートのやうな音の機微から先人逹は音階を發明した、私はそう想像してゐる。その音の機微を音樂の堕落と極め附けられては、それは到底受け入れられるはずもない。

野嵜氏は、さうした純化への反動が、七鍵氏のやうなビブラート愛好のやうな面で現はれて來ると考へてゐるやうだが、私はそうは思はない、むしろ逆である。表現したいことをビブラートのやうな技術で何とかそれに近づけようとしてゐるだけであり、他人のそれからは表現したいことを想像する。先ず音階があるのではない、機微から純化された音階を想像してゐるに過ぎない。音階こそが抽象化されて純化されたものである。反動も何も、原點がどこにあるかとの、個人差のある感覺的な話に過ぎない。拙くとも濫用されるほど、ビブラートは盛況である。私は、ビブラートのやうな音の機微こそ音樂の本質であると斷言する。

2008年9月2日

music

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2008-09-03T00:56:17+09:00
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どうでもいいけれども音樂とか大嫌ひで理由はリアリティを殺してゐるから。 そんなにはつきりと一音一音音階が確定してゐる自然の音なんてねえよとか思つてしまふ。

本題からは外れるが音樂について。音樂とは、「音階によつて規定された音の輯合の時間軸に沿つた流れ」ではない。さう規定してしまふと、人は絶對に機械の作る音樂に勝てないことになる。機械は腹が立つくらゐ音階も律動も完全だ、しかし實際にはどうだらう。人の奏でる音樂を機械の流す音樂より愛する人は少からずゐるのではなからうか。機械では、人の奏でるビブラートやチョーキングを表現できない。音階も律動も表現できない。CDのやうな一過的な流れとは違ふ、その人の奏でる表現からその人のその曲に對するその時點の思ひを想像する、それが私流の音の樂しみ方だ。

更に。自身の得意分野が音階よりも律動だからかも知れないが、私はビブラートのなす振幅よりもその周期に惹かれることが多い。私は、音樂のなす微妙な律動の周期の機微を感じることが好きだ。限りなく機械に近い音樂を奏でることは、十年ほど山ごもりでもすれば可能だらうが、音樂家が生涯をかけて表現しようと夢見る音樂は十年程度の山ごもりでは不可能である、私はさう斷言する。

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Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年09月03日