2008年5月下旬

広告

今日は何の日(Javascriptを使用しています)。

広告

2008年5月31日

最高に美味い食べ物

最終更新
2008-05-31T00:45:38+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_31_01
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_31_01
  1. ヒガシマルのうどんスープを作る(うどん無し)
  2. 適量と思ふ十倍の量の豆板醤をうどんスープに投入
  3. 完成( ̄▽ ̄人)
  4. お好みで、ビールと一緒に呑む

科學と宗教

最終更新
2008-05-31T19:49:37+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_31_02
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_31_02

私の考へでは、科學は宗教を説明する一つの手段です。更に誤解を懼れずにいふならば、私のとは森羅萬象を司る法則を指す。こゝには理路整然とした法則があり、その中で我々人間は生きてゐる、さう考へてゐます。それを創つた者を神と呼ぶのか、その創られたものを神と呼ぶのか、そこには大きな隔たりがあるのかも知れませんが、それでも私は神を信じてゐます。私が神と呼ぶものを創つた者がゐるのであれば、科學の法則を知れば知るほどその存在を信じずにはゐられないのですが、その者を絶對者として崇めることに何ら抵抗はありません。

宗教

最終更新
2008-05-31T22:19:05+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_31_03
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_31_03

私の世界觀では、宗教が道徳の分野に足を踏み入れることはない。各種一般的に宗教と呼ばれるものが輯り私の道徳を形成してゐることは事實だが、それはあくまでも一側面に影響を與へてゐるに過ぎず、影響を與へたからといつて信仰の對象になるものでもない。それは一般的に宗教とは呼ばれぬであらう武士道哲學にしてみても同樣のことである。何よりも面白くないのは、一般的な宗教がその教へを絶對的なものと見做して抗ふことすら認めないことである。地獄やら千年王國やら七十二人の處女やらをでつちあげて聞く者を脅迫または誘惑し、その教へを絶對的なものとしてそれに抗ふ者の行動を制限しようとする、そこには傳道する者自身の利を織り交ぜた欺瞞すら感じられる。思考を停止させた盲信に何か意味があるのか、盲信を強ひるのが宗教なのか。それは違ふだらう。絶對的なる神と呼ばれる對象がゐたとして、その考へに多少なりとも近づいた人類が少からず過去にはゐたのだらうし、それがクリストでありマホメットでありブッダだつたのかも知れないが、彼らはあくまでも近づいただけで絶對的なるものではない。そのやうな者の教へを盲信して如何する。もつといふならば、そのやうな者逹がたどり着いたであらう考へが現在に傳はつてゐると、どのやうなおめでたい頭が思ふのか。取捨選擇する能力が求められるのは、何もWWWの世界だけではない。

広告

2008年5月27日

イワシ

最終更新
2008-05-27T21:28:23+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_27_01
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_27_01

今日は初めてイワシを燒いた。ナスやらエリンギやらも燒いたのだがそれはさておき、イワシつて燒くとものすごい油が出るのね。知らなかつたよ。魚燒き機の掃除にかなり手間がかゝつた。しかも生燒けだつた氣がするし。そんな危險なイワシが、まだ冷蔵庫に三匹も控へてゐる。

2008年5月26日

圓熟

最終更新
2008-05-26T20:50:53+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_26_01
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_26_01

人は、迷惑を周りに及ばさず生ることができない。必ず何かに迷惑を及ぼす、さうして生てゐる。その後ろめたさの元、それに耐へ、なほかつそれと鬪ひ、言ひ譯を排除する努力を通じてのみその個人の人格が形成される。にも關らず、人は人間自身の、更には自分自身の後ろめたさに氣附かないふりをしようと、それをひた隱すことばかりに奔走する。果して、後ろめたさはひた隱さなければならないものなのか。その克服を自身の問題とせず、外部にばかり解決策を求めてゐて、本當に後ろめたさから解放されるのか。さうではないだらう。後ろめたさとは共存をしなければならない、私はさう考へる。共存してこそやつと、圓熟との境地に逹するのではないか。

2008年5月25日

ドライカレー

最終更新
2008-05-25T16:39:12+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_25_01
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_25_01

ヒガシマルのカレーうどんスープの箱裏に、ドライカレーの作り方が載つてゐた。實はこれを發見したのは昨晩のことであり、本日はドライカレーを作らうと樂しみにしてゐたのだ。それはさておき、注意書きによると、ひき肉やらタマネギやらニンジンやらが材料として必要だとのこと。なるほど、ドライカレーにはさういつたものも入つてゐたかも知れない、などと記憶をめぐらせながら近所のスーパーまでそれらを調逹に行つた。が、そこで本日の敗因の一つであるコロッケに出會ふ。コロッケであれば中にひき肉やらタマネギやらニンジンやらも入つてをり、それでゐてなほかつ適量が安く手に入るとの、おそらくそのやうな安易な考へが頭を巡つたのだらう。レジで百円ほどをしはらひ、とても上手な買ひ物をしたと悦に入りながら歸路についた。

家に歸り、早速昨日より樂しみにしてゐたドライカレーを作り始る。

  1. フライパンに油をひき、粉々にしたコロッケをしばらく炒める。
  2. 茶碗に一杯ほどのご飯をフライパンに入れ、ぱさぱさになるまで炒める。
  3. ヒガシマルのカレーうどんスープをそこに入れ、かき混ぜて完成( ̄▽ ̄人)
  4. 試食をする、正直美味しくない。
  5. 豆板醤を附け足してみる。あらら美味しい、今度こそ完成( ̄▽ ̄人)
  6. 食べ終り、ドライカレーを食べたいとの欲求が全く滿たされてゐないことに氣附く。

ヒガシマルのうどんスープ

最終更新
2008-05-25T16:42:31+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_25_02
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_25_02

さういへば、關東ではヒガシマルのうどんスープを手に入れることはできないのか。コンビニでもスーパーでも見かけたことがない。

2008年5月24日

七輪

最終更新
2008-05-24T20:00:02+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_24_01
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_24_01

七輪が欲しい。別に親不孝な使ひ方をしたいわけではなく、野菜や魚を燒くには七輪が最適だと思ひ附いたから。ガスコンロの魚を燒くところでしゝたうやらえりんぎやらなすやらを燒いてゐると、どうしても表面だけ黒こげになる。しかも、體に惡さうなすゝのやうな黒色。これではまつたく美味しくない、美味しいはずがない。といふわけで七輪の贖入を思ひたつたのだが、やはり七輪つて、部屋の中で使用してゐると全燒やら變はつた臭ひの香水にやら親不孝なことやらになるのだらうか。わざわざベランダに出て料理といふのもわずらはしく思ふのだが、一體七輪とは如何いふものなのだらうか。少くとも、きちんと理解するまでは贖入を控へたはうがよささうだ。

個性

最終更新
2008-05-24T21:05:03+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_24_02
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_24_02

とあるところで、個性について語つてゐる文章を讀んだ。個性重視の教育だとか、個性をみがくだとか、オンリーワンだとか。個性は私もとても大切だと感じてゐるのだけれども、誰もが個性をたつた一つでも持つてゐるとは限らないのではないか、そのやうなことを思つた。猫も杓子も自身が獨自の個性を持つてゐるなどと考へてゐるやうだが、といふのは私の偏見なのだけれど、果して個性とはさうも簡單に手に入るものなのか。少くとも、自己申告によつて手に入る個性などといふものはあり得ないし、教師やら何やらがそれを抽出し得るものでもない。個性とは、その個人が逆境にぶつかり、眞向からそれにぶつかつてゐつて、それでもなほ生き殘るものをいふのではないか。見つけたり抽出したり自己申告をしてみたり、個性とは決してそのやうな安全な場所で手に入るものではなく、結果的に否應なく出てくるものが個性なのではないか。

私には、個性などといふものが如何考へても備はつてゐないのではないか、つくづくさう感じるからこその否定的な意見なのかも知れない。さう感じるからこそ、一般的に歌の歌詞などになつてゐる個性に對して否定的なのかも知れない。しかし私は、自身の中に個性を見つけたい。一般的な人間はさう思ふのだらう、私も同じだ。

常識的に考へて、個性とは特異性なのではないか。特異的でないものを指して個性などとはいはないし、二人や三人や百人に一人持ち得る性質を指して自身の性質を個性などと呼ぶ氣にもなれない。なるほど、私が一般的に個性と呼ばれるものに對して否定的な感情を持つのはそこが原點なのだらう。試しに、他の人が持ち得ない私自身の性質をいくつか列擧してみても、それが百人に一人の性質だとはたうていおもへない。かといつて、他人が味はつたことのないやうな逆境にさらされてゐる、ゐたわけでもない、それでどのやうにして個性を自身の中に見出せるのか。

次に聞こえてきさうなのは、個性の組み合はせなのだが、寄せ輯めてユニークになることなど當り前だ。當り前を特異性と感じるのであればそれで良いのだらうが、それを指して個性と自己申告するのは控へたはうがよろしいのではないか。

コミュニケーション

最終更新
2008-05-24T21:24:54+09:00
この記事のURI參照
http://www.7key.jp/diary/2008/05c.html#rfc_24_03
この記事へのコメント及びトラックバック
http://www.7key.jp/diary/list/2008_05c_24_03

WWWはコミュニケーションのためのサービスではない、それは確かなのだけれども、WWW上でコミュニケーションを圖れる以上、それはコミュニケーションの場であると考へなければならないのではないか。さう思ふのも、そろそろWWWは資料の側面とコミュニケーションの側面を分けなければならないのではないか、そのやうなことを感じてゐるからだらう。もちろんそれらの間にリンクは必要だと感じるし、リンクがある以上それらを斷絶することはできないのだけれども、私は本氣でそのやうなことを思つてゐる。今までいくつかTCP/IP上で實現されたコミュニケーションの場はあつたのだが、それでもなほ、コミュニケーションの場はWWW上に收束されてゐる。だつたらもう、亂暴ではあるが、WWWはコミュニケーションの場にしてしまつても良いのではないか。少くとも、その兩者を切り分ける何らかのフラグは必要だと思ふ。

Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年05月24日