2008年4月下旬

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2008年4月29日

無邪氣と純粹

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2008-04-29T13:11:22+09:00
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エゴイズムの反語として無邪氣や純粹との單語が用ゐられ、その無邪氣や純粹に價値を見出す動きがある。無邪氣や純粹な氣持ち、そしてそこから生れる行動といふものは、果してそれだけで免罪符となり得るのか、もつといふならば、何故エゴイズムをひた隱さうとしなければならないのか。私は何も、無邪氣や純粹な氣持ちそのものを否定しようとしてゐるのではない。溢れ出んとするエゴイズムを無理に抑えつけ、無邪氣やら純粹やらでそれに蓋をしようとする行爲とそれを認める風潮に否定的なのだ。その蓋をより強固なものにする重石となるのは、世界平和や人權の尊重、人類の幸福などといつた動機であり、富國強兵や科學萬能などへの邁進もその類である。しかし、かういつた動機附けが必要な事實ほど明かな、エゴイズムの存在証明はない。たゞ自身が發するエゴイズムの臭氣を他人に悟られるのを懼れるがために、無邪氣や純粹との言葉で誤魔化してゐるに過ぎないのである。

しかし、何故エゴイズムをこゝまで否定し、更には自分の内にそれがある事實を認めようともしなければ許さうともせず、なほ惡いことに、他にまでそれを強要しようとするのか。エゴイズムを非難し否定しようとする清教徒的な行動は徒勞であるばかりか僞善を生み出し、それを生み出す背景には空疎な觀念や美辭麗句が見え隱れする。それらは自らのエゴイズムに蓋をしようとする者にとつて非常に甘美な代物なのであらう、まるで傳染病のやうに僞善に同情する感傷までをも生み出し、結果としてエゴイズムを否定する動きとなつてゐるのである。この動きはエゴイズムに裏附けられた行動よりも遥かに恐ろしいものである。そのことに無邪氣やら純粹やらを盾に取る者はそろそろ氣附くべきなのだが、當の本人は自ら氣附く術を持たない。それほどまでに、無邪氣やら純粹やらが現在の徳目として滲透してゐるからなのだが、私は何かをひた隱すための説明手段を徳目と認める風潮を恐ろしいと感じてゐるのであり、更にいへば、エゴイズムを否定しようとする感情の源泉こそエゴイズムで當の本人はそれに氣附いてゐない、さう看做してゐるからこそ恐怖を感じるのである。

スルーと容認

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2008-04-29T14:03:45+09:00
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わたしは{気に入った|気に入らなかった}物をスルーする連中が嫌いだし , そういう連中は馬鹿だと思っているとのくだりは同意できますが、スルーするということは容認と同じだろう ?とのくだりはそのまゝでは同意しかねます。スルーするとの語を「反應してゐない状態」と讀み取つてのことなのですが、人はさう何にでも興味を持つものではありません。價値を見出せず興味を持たないことに反應しなかつたからといつて、それを容認したと理解されてはたまつたものではない。自己反省的にさう思ふのは然るべきことだとも感じますが、他をさう理解するのは危險な思想なのではないかと思ふのです。いはばそれは、誰も讀みはしない何かの説明書に書かれてゐる小さな注意書きを盾に取り、さも讀んでゐない者が惡いとする辯に近いものを感じます。説明書をよく讀んでゐないものが惡い、これはある方面、民法か商法か知りませんがその手の法律との觀點から見れば間違ひやうのない事實でせう。だからといつて、その注意書きを讀んでゐなかつたからといつて、注意書きを讀まなかつたものが自身の被つた結果を容認してゐたかといへば決してさうではない。「スルーするといふことは容認したと後で責められても文句のいひやうがないことだ」といふのであれば解ります。しかし、スルーするといふことが容認したといふことにはなり得ない、もつといへば、何かをしなかつたとの状態が何かをしたとの行爲にはなり得ない、さう思ふのですが如何でせう。

DFN

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2008-04-29T20:12:59+09:00
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DFN要素といふものは、A要素で充分なのではないか。もしくは、A要素のリンク先のやうなものを指定できなければならないのではないか。辭典のやうなサイトを作つてゐるとそのやうな必要性を感じ、たつたそれだけの理由で、HTML5が魅力的に思へてくるのです。魅力とはさういふものではないでせうか。

エリンギ他

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2008-04-29T21:30:46+09:00
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エリンギ他

エリンギとピーマンをたつぷりのごま油で炒めた。結果は慘敗。ピーマンが焦げ屑のやうになり、ピーマンらしい味がまつたくしなかつた。次囘への反省。

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2008年4月27日

死と幸福

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2008-04-27T19:53:00+09:00
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本日は、『死の「壁」を越える SUPER LOVE』との書籍を讀んだ。まあ色々書かれてゐたのだが、要約すると、

  1. 生前に感じる幸せは假の幸せであり、それらは死と共に捨てねばならない。
  2. 死は生の延長線上にはない。
  3. 死ぬことに對する不安や恐怖は、死後の世界を知ることによつてなくなる。
  4. 死後の世界は存在する。
  5. 究極の目標は輪廻からの卒業で、輪廻は欲や感情、誤つた物の見方、價値觀、先入觀によつてもたらされる。
  6. 普段からできるだけ純粹な氣持ちで、愛情や慈悲を施すよう努めることが必要。

とのことだらう。なぜそのやうなことがいへるのかの根據は、「體驗したら解る」と著者である坂本政道氏はいふ。「體驗」とは、何とかといふ腦波をいぢくる發明品を用ゐて幽靈と話をしておしへてもらつたことを指し、確かに私はそのやうな體驗をしたことがないため、その世界觀を否定する權利すら持ち合はせてゐない。

では本當に、そのやうな常識外の體驗をすることでしか死への恐怖はなくならず、更にいへば、人は生前に幸福を手に入れることができないのか。決してさうではないと思ふのだが如何だらうか。

タケノコの煮物他

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2008-04-27T20:07:04+09:00
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煮物他

今日は、タケノコの煮物とはうれん草を使つたよくわからないもの。完全に行き當りばつたり。

  1. 鍋に適當に水と麺つゆの元を投入。
  2. 沸騰したらタケノコを投入。十分ほど煮込む。
  3. 更にわかめを投入。こゝで異變に氣づく。タケノコがどす黒くなつてゐる。
  4. 慌てて皿に盛り付け。七味唐辛子とかつお節を彩り程度にふりかける。
  5. 煮汁があまつてもつたいなかつたので、はうれん草と卵を入れて煮込んでみる。
  6. 味見をすると、どちらも似たやうな味であきがきさうだつたので、昆布の佃煮を添える。
  7. 完成( ̄▽ ̄人)

不味くはないけれども、もう少し何とかなつたのではないか、後になつてそのやうなことを思つてゐる。計劃とは、拙い分野にこそ、より必要なものなのだらう。

2008年4月26日

家事

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2008-04-26T11:04:27+09:00
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全ての家事の中で、アイロンかけほど難しいものはない。アイロンをかけるとその前より酷いことになる場合まである。そもそもワイシャツの肩の部分など平になつてゐないだらう。タックやら何やらでどう見ても平ではない氣がするのだが、不思議なことにクリーニングに出すと平になつて返つてくる。いつたいどうなつてゐるのか、不思議でならない。

カレーライス

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2008-04-26T22:54:25+09:00
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本日は再度カレーライスに挑戰。畫像はあまりにもアレなもので自粛。美味しくなるかと思ひ、かなり長時間煮込んだのが仇となり、換氣扇のすぐ外に干してゐた洗濯物がカレー臭くなつたり、お鍋の底が焦げ付いたりと、今日は散々な結果に終つた。まあカレー自體は惡くはなかつたのでよしとしよう。

2008年4月25日

燒きナス

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2008-04-25T20:13:36+09:00
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燒きナス

サンマ

本日は、燒きナスとサンマに挑戰。燒きナスは、人夢流・焼きナスの作り方に可能な限り忠實に作つた。忠實にできたか如何かは別にして、異常なほど美味しい燒きナスができあがつた。たゞ燒くだけで完成、つてわけではないのね。知らなかつたよ。これは正に味をしめて、再々チャレンジしそう。

スピリチュアリティ(2)

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2008-04-25T23:03:25+09:00
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私がスピリチュアリティを否定する理由の一つに、その傳道者逹の不寛容さが擧げられる。彼らは一人の例外もなく傲慢だ。自身のみが人間としての幸福なあり方を知り、自身のみが人間の未來を見通し、自身の考へに萬人が贊同して止まないと信じてゐる。信ずる者は救はれても、その教へによつて救はれる者は一人としてゐないことに氣附くべきだ。

スピリチュアリティも御多分にもれず、他の新興宗教と同じく人類の滅亡を示唆するなどその活動に餘念がないやうだが、人類の滅亡などといふ黙示録的な脅迫によつて、それから見込まれる現實的な效果など微塵もない。脅迫観觀との負の感情によつて生れる行爲が、如何して生産的となり得るのか、その行動が如何して積極的なものとなり得るのか。世界が滅亡するやうな危機にこの星が見舞はれて本當に、自身を含む志を同じくする者のみが箱舟に乘れるなどとどれだけ幸せなお頭をその無駄な圖體に乘せてゐるのか。

つまり彼らは、正義感や博愛など自身が信じるものとは反對の感情を「惡」と呼び、それらの氣持ちを拂拭、掃討したいやうだが、その掃討したいものと自身の掲げる美辭麗句の根源が一つであるといふことを何故理解できないのだらうか。その相違なる二つの感情の兩方が生存權を有し、それらが同樣に無であり理想であることに氣が附くことこそ、我々の生き方、即ち我々の死に方なり得んと感じないのだらうか。

2008年4月23日

エゴイズム

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2008-04-23T23:52:25+09:00
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全てを超越する絶對的なるものを設定することなしに、エゴイズムを否定することはできない。それは、あるエゴイズムを否定しようとするがために他のエゴイズムを用ゐざるを得ない現實があるためで、究極的に、全てのエゴイズムを否定するためには想像の外の絶對的なるものを引つぱり出さざるを得ないからであります。義務友情、それらは全てエゴイズムであり、それらを否定するためには生そのものを否定せねばならず、ましてやそれらを否定せんと主張する身振りは、他人に對する暴力にほかならない。

だからといつて、私はエゴイズムを肯定してゐるわけではない。全てを超越する絶對的なるものの設定こそ生なのではないか、そんなことを感じてゐるのです。何も逆説的な言葉遊びをしてゐるのではありません。絶對的なるものの設定はエゴイズムに等しく、しかしながら、それこそが生そのものではないのかといつてゐるに過ぎないのです。エゴイズムが生そのものなのだといつてゐるのです。

2008年4月21日

合理的

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2008-04-21T22:29:14+09:00
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私は、合理的なものの考へ方は、突き詰めると不合理に辿り着くものだと感じてゐる。更にいへば、不合理な世界を合理化しようとするからこそ、合理的なものの考へ方に限界を感じてゐるのである。そもそも、理屈を否定する者――思考を停止する者――にはこの考へ方が解らない。それは、理屈でものを考へることに對する立ち位置としてしか理屈の否定をしてゐないからに他ならない。不合理を知つて尚且つ、合理的には説明を成し得ない領域にまで足を踏み込むことを、否定するかさうではないのか。それだけの違ひでしかない。

私は先に、スピリチュアリティとの考へ方に對して、興味を持つが否定的だとの立ち位置を明かにした。それはスピリチュアリティの訓へが不合理であるからであり、それとは逆に、その法則が合理的であるからに他ならない。法則を經驗的に合理的と認めるからこそ、不合理にしか説明し得ない傳道者逹に對して否定的なのだ。萬有引力の法則を知らないニュートン以前の人類も、我々と同じくリンゴを宙に放ればいづれ地面に「落ちる」と經驗的に知つてゐた。スピリチュアリティとはそのやうなものであり、私の知る傳道者のおほくは屁理屈を言つてゐるに過ぎない。一度立ち位置に捉はれず、意識をニュートラルに戻してみては如何か。理屈に相對するものが感覺なのではなく、感覺を説明するものが理屈なのだ。それに氣附かない限り、スピリチュアリティが何かを解決することなどあり得るはずもない。

不合理的

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2008-04-21T22:48:27+09:00
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いつでも、いついつまででも。感覺は不合理的なのです。私がいひたいことはさういふことなのです。

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2008-04-21T23:55:28+09:00
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酒は人生を樂しくする。が、最近は如何考へても呑み過ぎだ。依存症になるのを危惧して強い酒を控へてからといふもの、量に頼り始める何かの依存症。ビールはお腹がいつぱいになるから、量も呑めなくて良いだなんて迷信だ。水は一リットルも一度に飮めないけれど、ビールならあつといふまに一リットル、二時間も經たないうちに五リットルくらゐ、平氣でなくなる。そもそも私は酒が強い方ではないのだが、さて、如何したものか。

以上のやうなことを思ひつゝ、ビールは控へて強い酒に變へようかと、五リットルほどビールを戴いた後に早速本日から實踐してゐる私は、思ひついたら即實行にうつす行動派。

Copyright (C) 2008 七鍵 key@do.ai 初版:2008年04月21日