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https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b26_kiyotakizi.html#basic
https://www.7key.jp/data/fudasyo/bandou33/b26_kiyotakizi.html#other
寺伝によれば、推古天皇15(706)年に、勅願によってこの寺の背後の山(龍が峰)に聖観音像を安置したことが創建と伝えられている。神代の昔、筑波の二柱の神が小野山に遊幸した折、頻りに喉が乾くが周辺の土地は乾燥しており水を求めることができなかった。そこで、伊弉諾命が天の鉾をもって地を突くと、清水が滝の如く湧き出て南北に流れたとされる。神々はこれを喜び、雌神は滝口の北に立ち、雄神は滝の南に立ったといわれている。
神亀5(728)年、行基菩薩がこの滝で日想観を行った際、滝のなかに観音の姿を感得した。そこで、丈六の観音像を作り山頂の滝口に安置、南の滝が清明であるところから南明山清瀧寺と号した。それ以来、この滝からの清水は大悲水と呼ばれ、飲んだり浴することによって病が平癒したといわれる。しかし、大同年間(806〜810年)になって滝口が塞がり、水が出なくなった。これは、筑波権現がこの水を移し、水戸の守山神社に与えたためといわれている。後に、花山法皇が当山を巡錫した際、山の上では参拝に不便というところから、山麓に移したと伝えられる(かかる瞼岨の山頂に在っては、老若の結線あまねく及ばず)。徳一法師によって山の中腹(現在、古観音と呼ぶ)に移され、観音堂の所在を示す礎石が現在も残されている。
鎌倉時代には八田知家が保護して栄えたが、永禄から元亀年間(1558〜73年)の兵火で焼失。元禄年間(1688〜1701年)に本堂が再建されて再び隆盛、朱印状も得ていたが、明治維新以降は急速に寺運は衰え、無住の時代が続いた。無住の折は、観音堂を支える五十軒あまりの小野部落の中から総代が四軒選出され、この総代が三年ごとに交代で直接観音堂を管理し、納経を受け付けていた。昭和44(1969)年には不審火によって本堂を焼失し、天保年間(1830〜44年)に再建された仁王門を残して廃寺同然となった。しかし、地元の活動によって昭和52(1977)年に再建され、二年後には新しい本尊も入仏されている。寺は、今現在も無住だが、交替で老人会有志が納経所奉仕を年中無休で行っている。
院号は、慈眼院。
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