武士道の歴史

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武士道の歴史

最終更新
2007-04-23T00:00:00+09:00
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http://www.7key.jp/data/bushido/history.html#what

武士という言葉自体は、奈良時代には既に「武官」や「武人」の意味で使われていた。しかし武士道の主体としての武士が台頭するのは平安時代中期以降のことである。その頃から合戦を職業とする兵(つわもの)や、官人貴族の警固をあずかる侍(さぶらい)、武力をもって公的に奉仕する武者(もののふ)が現れ、彼らを総じて武士と呼ぶようになったと言われている。武士の誕生以来、現在武士道の中核となされている「主君に対する倫理的な忠誠意識」は決して高くなかった。これは当時の主従関係が、主君と郎党との間で結ばれる契約関係に過ぎず、「奉公」は「御恩」の対価であるとする観念が強かったためである。このことを示すエピソードがある。時は治承4年(1180年)、三浦大介義明は源頼朝の挙兵に呼応し、一族らを石橋山の合戦に向かわせた。しかし合戦には間に合わず、衣笠城に引き返したところ間もなく平家方の河越・江戸・畠山の大軍に衣笠城を攻撃されることとなった。この戦いは後に「衣笠合戦」といわれる壮絶なものであったが、ついに衣笠城は落城、年老いた義明は討死し、他の一族は久里浜から海を渡って安房に逃れたと言われる。その際の一幕。

衣笠城落城に際して撤退作戦についてゆかない人物があった。総帥衣笠義明――89才になる老将であった。子供達が退城を促しても、彼は毅然としてこれをはねつけた。
「俺はここに残る。お前達は急いで城をぬけだして、殿(頼朝)の在否をたずねてまいれ」
なぜそうするかについて、彼は凛としておのが思いを語る。
「三浦は源家代々の家人だ。幸いもう一度源氏が再興しようとするときに巡りあったことは何たる喜びであろう。俺ももう80過ぎ、残る命は知れたものだ。いまこの老いの命を武衛のために投げうって、子孫の手柄にしたいと思う」

その後、安房で頼朝と会した三浦一族はその直属軍として頼朝を助け、後の鎌倉幕府でも三浦氏は北条氏と肩を並べる程の勢力を持つこととなる。また、頼朝は義明の忠死を弔って衣笠城に近い大矢部に満昌寺を建てたと言われている。ここで重要なのは、「老命を武衛に投じ、子孫の手柄にしたい」と義明が言っていることである。つまり、単に主君のために死ねれば本望だと言っているのではなく、これを一族の手柄とし、引き換えに褒美を貰うつもりだと言っているのである。この時代、恩賞の対象となる手柄には、一番乗りや名のある敵の首を上げることと、被った犠牲によるものとがあった。少し時代は遡るが、合戦注文や軍忠状と呼ばれる史料が残っている。これらはどこでどのような戦いをしたかという報告書で、どんな傷を受けたかということまで細かく記され、これを戦奉行が承認することにより、結果恩賞を授かることができた。傷を受ければその代償として恩賞に授かり、ましてや戦死は大変な犠牲、遺族には必ず恩賞の沙汰がある。つまり、戦死を含めたさまざまな奉仕には、必ず見返りとして恩賞を伴う、これが当時の言葉で言う「御恩と奉公」なのだ。当時の武士達の中では、「戦うこと」と「褒美」が直結され、これを根本的なルールにしていたと言えよう。

このように、少くとも初期の武士達の間では「主君と生死を共にするのが武士」、「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」との考え方が確立されていたわけではなかったが、江戸時代に入りこれはやや変質する。徳川幕府が全国を掌握したため、それ以後の武士達は功名をたてる余地がなくなり、何らかの功績があったとしても新たに恩賞を授かることがほぼ不可能になってしまった。そこで徳川幕府が言わば抜け道として考えたのが武士道と言えよう。徳川幕府は、「奉公し御恩がないのは当然、武士は恩賞などを目当てに働くものではない」との、「武士道」を確立させた。山鹿素行らにより、儒教における道徳でこの価値観が説明され、これによって初めて儒教的な倫理が武士に要求される規範とされるようになったと言われている。そしてこの価値観が、徳川300年の世を支配することとなった。江戸時代における武士は、大いなる名誉と大いなる特権、そしてそれらに伴う大いなる責任を持つ階級であった。重要なのは、武士が大いなる特権と同時に、大いなる責任を持っていたことである。武士は特権階級であるが故に行動の共通基準が必要であり、そのことが武士道の確立につながったのである。また万延元年(1860年)には、幕末三舟の一人と称される山岡鉄舟が『武士道』を著している。その中には神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降専ら武門に於て其著しきを見る。鉄太郎これを名付けて武士道と云ふ。とあり、鉄舟が名付けるまでは概念として存在したものの、その概念が「武士道」と呼ばれていたわけではなかったことがうかがえる。

明治維新後、「四民平等」の布告により武士は事実上滅び去った。実際、明治15年(1882年)の『軍人勅諭』(正式名称:陸海軍軍人に賜はりたる勅諭)では、武士道ではなく忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目が主文で説かれ、特に「忠節」でもって天皇に仕えることとされた。ところが、日清戦争以降「武士道」が再評価されるようになる。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者達は、武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした。また、内村鑑三や新渡戸稲造らキリスト教信者による武士道の流用も見逃せない。山折哲雄によれば、新渡戸は渡米時に自らに向けられた人種差別に苦しみ、自分を差別しなかった一部のキリスト教信者の倫理観に感銘を受け、それに相当するものを日本思想史に探した時に「武士道」を発見したのだとされる。新渡戸はカリフォルニアでの療養中、日本の武士道と西洋の騎士道を比較し、武士道が日本人の倫理思想の核になっていると主張する『武士道』【Bushido: The Soul of Japan】を英文で書き上げた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行され、やがて各国語に訳されるベストセラーとなり、逆輸入される形で日本語版が出版されて「武士道」ブームを起こした。この著作の影響もあり、【Bushido】は世界でそのまま通じる言葉となっている。

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Copyright (C) 2007 七鍵 key@do.ai 初版:2007年04月23日 最終更新:2007年04月23日